ハラスメント概念は歴史的役割を終えたのでは?

今年度学内の委員をやっている関係で、以下のような企画を(他の教員や学生の委員と共に)主催しました。
学外に(積極的には)広報しないとの取り決めでしたので(大学のウェブサイトでは告知されていましたし、実際に学外からの参加者もおられましたが)ここでは事後報告です。

2009年度先端総合学術研究科パートナーシップ委員会企画
「大学院に特有のハラスメントを考える」

日時:2010年2月25日(木)15:00〜18:00
場所:立命館大学衣笠キャンパス 創思館401・402
講師:牟田和恵氏(大阪大学大学院人間科学研究科)
講演テーマ:「ジェンダーの視点から見る大学院のハラスメント」
司会:吉田寛(パートナーシップ委員/先端総合学術研究科)

■開催趣旨
 先端総合学術研究科は学部を持たない独立研究科であり、そこでの学生と教員との関係構築のあり方は、通常の大学(学部)組織におけるそれとは必ずしも同じではなく、そのためいわゆるキャンパス・ハラスメントに関しても独自の問題認識と指針が必要であると考えられる。
 そこで先端総合学術研究科では、学生と教員の代表からなる「パートナーシップ委員会」を2006年3月に発足させ、研究と教育が一体である大学院に特有のハラスメントに対する問題意識を高め、共有し、よりよい学究の場を創造するための啓発活動を行ってきた。またこのパートナーシップ委員会では、2006年10月に江原由美子氏(首都大学東京社会学・女性学)、2007年12月に前田秀敏氏(立命館大学ハラスメント防止委員会事務局長)、2009年2月に御輿久美子氏(奈良県立医科大学NPOアカデミック・ハラスメントをなくすネットワーク(NAAH)代表理事)を外部の専門家(肩書きはいずれも当時)としてお招きし、講演やインタビューの企画を重ねてきた。
 これまで当委員会において、また上記の諸企画の中で、もっとも中心的に議論されてきたことは、「大学院という空間におけるハラスメント問題」をいかに考えるのか、それはいかにして起こるのか、そしてどのような制度設計や解決(策)がそのためには求められるのか、ということであった。
 そこで今回の企画では、ジェンダー論の専門家であり、セクシュアル・ハラスメントに関するご著書もあり、またご自身でも大学院での研究と教育に携わっておられる、大阪大学大学院人間科学研究科の牟田和恵氏をお迎えして、「ジェンダーの視点から見る大学院のハラスメント」というテーマでご講演いただく。ご講演の後、牟田氏を交えて、先端総合学術研究科の学生および教員に各自の問題関心に沿った質疑やディスカッションをしていただくための時間を設けたい。

■講師紹介
 牟田和恵(むた・かずえ)。大阪大学大学院人間科学研究科教授。専門は歴史社会学ジェンダー論。著書に『戦略としての家族──近代日本の国民国家形成と女性』(新曜社、1996年)、『ジェンダーで学ぶ社会学』(共編著、世界思想社、1998年)、『実践するフェミニズム』(岩波書店、2001年)、『ジェンダー家族を超えて──近現代の生/性の政治とフェミニズム』(新曜社、2006年)、『家族を超える社会学──新たな生の基盤を求めて』(新曜社、2009年)、訳書にシーダ・スコッチポル『現代社会革命論──比較歴史社会学の理論と方法』(監訳、岩波書店、2001年)などがある。また、とりわけ本企画と関連する著書として『知っていますか? セクシュアル・ハラスメント 一問一答』(養父知美との共著、解放出版社、1999年;第二版、2004年)、『セクシュアル・ハラスメントのない世界へ』(共著、有斐閣、2000年)がある。

主催:立命館大学大学院先端総合学術研究科パートナーシップ委員会

創設者の言によると、当初こういう委員会を作った背景には、「大学院生と教員との関係はまだ定義されていない」という認識があったそうです。
というのも、これまで(今でも)通常、大学院は基本的に学部の上にのっかった組織(とくに私学の場合、主として学部生の学費で大学院を賄っているという意味でも)であり、教員は学部教育の「おまけ」(サービス、unpaied work)として「何となく」大学院を担当しており、学部の場合ほどしっかりとは、その組織の理念・方法・効果・目的を考えなくてよかったからです。
ところが、うちは学部がない独立研究科なので、教員はもっぱら大学院生を相手にして仕事をしている(飯を食ってる)わけで、そうなると、学生を相手にして何をどこまで、どうやってやればよいのか、ということ(ザッハリッヒにいえば職務内容)を一から規定しなくてはなりません。
学部生と違って、大学院生は研究者の卵ですから、一方的な教える=教わる関係にあるというより、一緒に研究をしている仲間(「パートナーシップ」という言葉はここから来ています)のようなものです。とはいえ他方で、学費を払っているのは彼(女)らであり、学びの主体はあくまでも(学部生の場合と同様に)彼(女)らである以上、そのことに対して教員は(最小限ではなく)最大限の配慮をしなくてはなりません。けじめの付け方、線引きの仕方については、むしろ学部生を相手にする場合以上に繊細な配慮・努力が必要になる、といえるかも知れません。学生との共同研究の成果は必ず連名で出すこと、といった当たり前のことから、学生の研究(テーマ)やその進め方に教員がどこまで口を出すべきか、最近の大学院生の慢性的過労(COEなどでの成果主義の結果)に対して教員はどう/どこまで責任を取ればよいのか、といったまさしく「未定義」な難問まで、このパートナーシップ委員会が扱うべき問題はきわめて多岐にわたります。
今回の企画では、牟田和恵さん(大阪大学/キャンパス・セクシュアル・ハラスメント全国ネットワーク)をお招きして、彼女のご専門であるジェンダー論の観点から大学院特有のハラスメント問題についてご講義いただきました。ですので、結果的にセクシャル・ハラスメントに焦点を当てる格好になりました。牟田さんとは(研究者として畑違いですので)初めてお会いしましたが、前もってうかがっていたとおり、とても気さくでかつユーモアのセンスがある方で、学生と教員が一緒になって「パートナーシップ」のあり方について知恵を出し合い、議論し合う、という当委員会の主旨にきわめてふさわしい方でした。非公式ですがこの場でも感謝を述べたいと思います。ありがとうございました。とくに(しばしば膨大な時間がかかる)真偽の判定(シロかクロか)よりも、当事者の教育・学習環境(かけがえのない今この時間・この場所)の回復を優先すべし、という一貫した姿勢が印象的でした。
また、私個人的には「ハラスメント」概念を考え直すよい機会になりました。私は企画責任者として司会を務めていたので、頭の半分ではその場の議論を生産的に深める(そのように導く)ことを(当然)考えていたわけですが、もう半分では、「ハラスメント」概念が言ってみれば「歴史的役割を終えた」のではないか、というその場で突発的に思いついたことをぐるぐると考えていました。
これは当日牟田さんにもうかがったのですが、一般的には、大学での「ハラスメント」に相当する言葉・概念が、高校(まで)には存在せずに(正確には存在しないことになっている)、代わりに「体罰」という問題が存在する(正確には存在することになっている)そうです。よって彼女の所属する「全国ネットワーク」の活動も、高校(以下)は射程に入っていないそうです。
学生は高校までは基本的に「体罰」のパラダイムを生きているのに対して、大学に入ると途端に「ハラスメント」のパラダイムの中に入る。この「切断」こそ、重要だし、ハラスメント概念(の限界)を考える上で本質的であると私は思います(それは「学生」と「生徒」の切断、「主体」と「主体未満(以前)」との切断、ともいえます)。
つまり、極端にいえば、高校まで(高校が過渡的だとしたら少なくとも中学まで)の学校は基本的に「不快」だということです。あるいは、不快なことをいかに我慢するか、を学ぶ場だということです。いってみればすべての小学校は「ハラスメント小学校」(略してハラ小)であり、すべての中学校は「ハラスメント中学校」(略してハラ中)であり、すべての高校は(以下、略)というわけです。それが大学(つまり「社会」ということですが)に入ると途端に、「不快」なことは我慢しなくてよくなる。我慢すべきでない、とすら言われるようになる。「ハラスメント大学」(略してハラ大)は存在しない、存在してはいけないことになっている。しかも、あたかもすべての社会関係・人間関係は「快/不快」の二分法に基づくのだと言わんばかりに、そればかりが前面化し、そればかりに敏感になる(社会学でいう「感情化」ってやつですか? ちょっと違うか)。でもって、バカじゃないか、そんなこという今どきの学生は。ちょっとぐらい不快だったとしても我慢しろ。え? 教員だって我慢してるよ、人はみんな我慢してるの。などと「正論」をうっかりのたまわっちゃう人は、理論的な立場においてハラッサーと区別できなくなる。そうしてわれわれ全員の首が絞まっていくのである。「快/不快」の奴隷として。
現状はそういうところまで来ているのではないだろうか。ハラスメント概念は一定の歴史的役割を終えており(実際それで良くなったこともたくさんある)、これ以上の概念の拡張(「何とかハラスメント」という新たな語の創出)は、われわれの社会にとって害悪であるだけでなく、当のハラスメント概念(の有用・有効な語義の保持)のためにも良くないのではないだろうか。現在ハラスメントとされ(う)る多くのケースは通常の犯罪(傷害/暴行/脅迫/迷惑/ストーカーなど)の枠組みで処理できるし、そちらで処理すべきだろう。「快/不快」の原理なんて社会を構成する上でどうでもよい、とは言わないまでも、その有効範囲はミニマムな領域に留められるべきではないのか。
とまあ司会進行をしている間にそんなことを考えていたのですが、まあこの企画の主旨は、大学院でのハラスメントの問題・対策を様々なケースを通じて実践的に検討していくことであって、既存のハラスメント概念の妥当性・有効性について批判的に議論を深めていく場ではないので、ぐっと我慢して何でもない顔をしていましたが。私べつにその筋の専門家でもないですし。こういう委員をやっていなかったら(私にとっても)実はどうでもいい問題かも知れませんし(いかに私が「なんでも屋」的とはいえ、こればっかりはさすがに…)。
でも、そのうちこうしたことを誰かと話せたらいいな、と思って、あえてここに書きました。実はけっこう普遍的かつ生産的な問題だったりします(ということに気付いたのが私にとっての今回の一番の収穫でした)。学校で道徳が自明視されることへの違和感・気持ち悪さという点では、最近読み直したこの本ともつながります。学内の委員は来年度も継続してやる予定ですし、企画もまた何かやります。あまりそういうことを話す機会もないですが(ふだんの会話ではわざわざそんな話題を出さないし、むしろ避けるのではないでしょうか)ここを見られている中には、私と同じく学内の委員(アカハラ・セクハラ関連)をやってる(やらされてる)方もいるでしょうし、また場合によっては「当事者」的な立場に置かれている(その経験がある)方もあるやも知れませんので、色々とお知恵を拝借できれば幸いです。