知るも愛、知らずも愛

aesthetica2010-01-17

前にもここでちょろっと触れた、mixiのボイス機能。あまりにうるさくて、それがためにmixiをやめようかとも思った。せめてオフにする設定があればいいのに、と。自分が使ってる人はあまり気にならないんだろうけど、と。他人のことを多く知る(知りすぎる)ことは、今の私にとっては正直しんどいのだ。単純に(余計な情報が目に入ることで生じる)時間と労力のロスを減らしたいというのもあるけど。
と思ったら、スタイルシートを設定してブラウザ上でボイスを不可視にする方法があるというので、やってみた。ついでに、前からうるさいと思っていたアプリとか広告とかも全部切ってみた。
結果、大成功。余計なものが消えて、メッセージとマイミクシィとコミュニティだけのミニマムな状態になった(コラボ何とかっつーのは切り方が分からず残ってるが)。これなら安心して毎日mixiを覗けるわ(笑)。サービス開始当初は確かこんなようだった記憶も。空白部分が多くなって画面がアンバランスなのはしょうがないな。
情報が多すぎる、増えすぎるのがデフォルトで、それをカットするためにむしろ労力(ともすればお金すら)を注ぐ、というのはいかにも現代的だな、と思った。実際に今回の私も、mixiに月々幾らか支払えば、ボイス機能が表示されないように自由に設定する権限がもらえる、と言われたら払っていたかも知れない。
不要なダイレクトメール、勧誘電話、訪問(家も研究室も)とか、基本的に先方にこちらから連絡してリストから外してもらっている。単に無視した方が早いし手間もかからない場合も多いのだが、何となくそれは許せないんだよね。
でもそうした自分の行動の根拠や正当性を合理的に説明できない。余計な時間をかけないようにするために、しばしばもっと余計な時間を使っているわけだから、よく分からなくなる。それはもしかしたら、むしろ合理性に反する衝動のようなものなのか。
ちなみに私の知り合いの大学教員で、研究室に電話をかけてくる勧誘電話の主と一々会って直談判してお引き取りいただき、その経緯をすべて記録・公開しているすごい方がいるが、私はそこまではできない。数年前、この記録を最初に知ったときに(彼自身のことはそれ以前からよく知っていたが)彼をそこまで駆り立てているものは一体何だろうと考えたが、その時は、それは愛だろう(何に対してのかはさておき)という結論に自分の中で至った。もちろん宗教的な意味での、である。
ということは、先述した私の中の衝動も、じつはちょっとした愛なのだろうか。いずれにせよ私の場合、不徹底・中途半端きわまりないものだが。
というわけで、mixiのボイス機能を見ないのもやらないのも愛ということでご理解下さい(無理矢理だな、オイ)。