明日に向かって忘れろ!

BOSE(スチャラダパー)の『明日に向かって捨てろ!!──BOSEの脱アーカイブ宣言』双葉社、2008年)。「ほぼ日刊イトイ新聞」での連載が単行本になったもの。
やたらモノを持っていることで昔からその筋で有名だったボーズが、自分の部屋にたまったビデオテープ、雑誌、CD、ハードディスクの中味、服、フィギュアなどを、自分だけでは捨てられないので、編集者と一緒に、どんどん捨てていこうという企画。これがもうめちゃくちゃ面白い。とくに私も大概モノが捨てられない人間なんで、感情移入しまくり。
手始めに幾つか引用して紹介しよう。
まず「ビデオの棚を前に苦悩する」の巻(p. 9)。

ボーズ「引っ越しのときに、あまりにも意味がないものはずいぶん捨てたんだけどねえ。あ、これは、あやしいなあ…。『サッカーなど』。」
編集者「『など』、あやしいね。」
ボーズ「『など』、いらねえだろ、っていう。」
編集者「そもそも取っとくつもりが、ない感じがします。」
ボーズ「そういうの、みんなどうしてんだろう? 捨ててんのかな?」
編集者「『サッカーなど』?」
ボーズ「『など』。捨ててるのかな? 『ドラマなど』。」
編集者「捨ててるっていうか、いつの間にかなくなってるんじゃない? 妹が上書きしちゃったとか、お母さんが捨てちゃったとか。」
ボーズ「ああ、そっかそっか。」
編集者「要するに、あの、捨てる瞬間にさえ立ち会わなきゃいいんだよね。」
ボーズ「そうなんですよ。そうそうそう。そうなんだよ、これはね。結果的になくなったっていいんだもん。」

次に「壊れていない電気機器」(p. 48)では、新品同様だがもう使っていないISDNルータを前にちょっとした「問題提起」が。

ボーズ「あの、ISDNのルータで。で、引っ越したときまでは、「こりゃいけるなー」と思って持ってきたんだけど、もうADSLになっちゃたから、いらなくて。でもさ、なんか、新品同様っていうか、べつになんにもおかしくないのに。」
編集者「わかるわかる。で、たしかこういうのって、買い取りなんだよね。」
ボーズ「そうそうそう。べつに、ふつうに買ったやつで、ま、4万とかするじゃん、こういうのって。当時。」
編集者「当時はそのくらいしてたはずだよね。いまはきっと二束三文なんだろうけど。」
ボーズ「そうなんだろうねー。こういうの、捨てにくいよねー。」
編集者「うんうん、捨てらんない。」
ボーズ「ていうか、もう、ムカつく。」
編集者「これ、みんなあると思うわ。」
ボーズ「ね。ムカつくっていうか、騙されてる感じがするんだよね。」
編集者「そうそうそう(笑)。」
ボーズ「いや、捨てるしかないんだけど。いらないし。本気でいらないよね、これ。」
編集者「うん。ちょっとこれは、あの、問題提起という感じ?」
ボーズ「ですよね。こういうものをどうしてくれるんだ、みたいな。(…)もうなんか、極端にいうと、「訴えてやる!」っていう気分になるよね。いや、訴えないけどさ。」

続いて、どんなに整理整頓好きな家庭でも、ここだけはアナーキーでぐちゃぐちゃだろうと思われる「最後の聖域」、すなわち「工具箱の迷宮 その3」(p. 85)。ここではカント教授も真っ青の「コペルニクス的転回」の瞬間が訪れます。

編集者「工具箱、どうすりゃいいんでしょうねぇ。」
ボーズ「でも、何か捨てたいね。」
編集者「うん、何か捨てたい。」
ボーズ「もう、思い切って、ネジとか捨てちゃおうかな!」
編集者「悩みに悩んでネジかよ(笑)」
ボーズ「これとか、いらないよね?」
編集者「「これ」?」
ボーズ「うん。いらないよね?」
編集者「いや、「これ」どころか、「このへん全部」いらないもんとしていままで話してたのかと思ってた。」
ボーズ「え? どういうこと?」
編集者「工具箱ごと捨てても大丈夫なんじゃないかっていう気がするんだけど。」
ボーズ「(息をのむ)ほんとだ!」
編集者「とりあえずさ、いったんぜんぶ捨てると仮定して、そこから必要なものを抜くっていうのはどうでしょうね。」
ボーズ「そうだよね、言えてるね。ほんとだね。言えてる、言えてる。」

そしたら結局、抜き取って残った「必要なもの」はペンチとドライバー合わせて五本だけというオチ。発想の転換のおかげで、工具箱周辺はだいぶ捨てられたようです。

さらに「コンビニマンガのワナ」(p. 157)では、話の射程が文化産業批判(ただし自虐的)にまで及んできます。

編集者「ヤバいねえ(笑)。」
ボーズ「ヤバい。で、またさあ、捨てやすくつくってあるじゃん。」
編集者「ああ、ちょっと悪い紙でね。捨てやすいから買いやすい、っていう。」
ボーズ「そうそうそう。昔買ったやつにまた買わせようっていうのがあらかじめもう企まれている。」
編集者「そこまでわかってるのに買ってる(笑)。」
ボーズ「そうそう。「おまえら企業の考えていることはお見通しだ! 買った!」みたいな。」
編集者「ぜんぜんダメだわ。カモ。」

で、まあ、結果的には失敗するんですよ、「脱アーカイブ」に。
あの人からもらったものはいらなくても捨てられないよとか、黄金時代の『週間チャンピオン』(山上たつひこ水島新司手塚治虫鴨川つばめ萩尾望都が同時に連載していた1977年の号)はさすがに捨てられないっしょ、とか言って。しかも「捨てさせる」役回りのはずの編集者(永田泰大氏)が途中からすっかりBOSEと価値観を共有し始めちゃって(最初からそう運命付けられていたわけだが)その時点で、もうダメ。それ以上何も捨てられない。「私が預かっておきます」とか、意味無いっつーの。読んでる方まで思わず「それは捨てちゃだめ、捨てるならオレにくれ」と言いたくなる共犯関係が仕組まれている。
この結果はある意味で予想通りなので(すべてネタなわけで)その是非はまあ問わないとして、とにかく会話のやりとりが面白い。
あと何よりも「明日に向かって捨てろ!」というタイトルにやられました。このタイトルからしてきわめて「前向き」な訳ですよ。逆に言えば、捨てること無しにわれわれに明日は来ない!というくらい、捨てることにポジティヴ。引っ越しの当事者でなくとも、自分の机の周りや部屋の中を見回してつねに暗鬱たる気持ちになっている人(私を含め)は、捨てることがいかに「前向き」に未来に通じているか、痛いほど知っているはず。それが出来ないばっかりに、いつまでも真の「未来」が来ない、ということも。
さらに私は、情けない話ですが、この本を読んで初めて「捨てる」ことについてちゃんと考えた気がします。適当に列挙すると以下のような感じ。

(1)「捨てる」ことには必ず哲学が必要である。一方「アーカイブ化」には必ずしも哲学が必要ない。むしろ「捨てる」ことの哲学を持てぬがゆえの「アーカイブ化」である。
(2)「捨てる」ことは「無からの創造」と同じレベルと強度での(ベクトルは真反対)大文字の「クリエイティヴ」な営為である。
(3)「捨てる」ことは、ヨーロッパ近代へのラディカルな否定・批判となりうるが、ポスト・モダンの論者達を含め、近代批判の文脈で「捨てる」ことを明快かつポジティヴに説いた思想家は案外いない気がする。「折衷」とか「リサイクル」とか「流用」とか「換骨奪胎」とか、そんなのばっか。誰か「捨てろ」と言ってる人いませんか? 「老人力」とかそっち系は無しで。待てよ、一昔前に流行った「超整理法」というのは、よく知らないが、あれは捨てる話だったか?
(4)「捨てる」ことは現在あらゆる方面でウケが悪い。政治的・経済的には言うまでもなく、エコロジー的にも悪とされている。しかも「世界のアイコトバ MOTTAINAI」なんて言われたら、もう形而上的にもグローバルに勝ち目無し。これが(3)の理由らしきものになるかも。
(5)従って「捨てる」ことこそが、何よりも難しい。実践においてそうならば、捨てることを全面的に肯定する哲学を打ち立てることが難しい、ということか。

BOSEの本でも自分が録画した昔のビデオを捨てる話のときに言われていたが、要は所有していることを、あるいは所有物の存在を、忘れてしまえば、良いわけですね。存在を忘れて、いつの間にか誰かが(あるいは自分が知らずにうっかり)処分、というのが、一番美しい「捨てる」かたち。仮に「哲学」が無くても「忘却(力)」があればいいんだよね。
そこで、ハッと思い出して数年振りに手に取ったのが、次の本。
ハラルト・ヴァインリヒ『〈忘却〉の文学史──ひとは何を忘れ、何を記憶してきたか』(中尾光延訳、白水社、1999年)
記憶術は実はその起源(古代ギリシャ)において忘却術とセットであったが、前者とは異なり後者は、技法として伝承・洗練されることなく、歴史の中でそれこそ忘却されてしまった、ということにヴァインリヒはわれわれの注意を喚起する。「忘れる」ことを前向きに捉えていくことも、捨てることに劣らず重要ということです。この本は、シモニデスの「記憶術」の向こうを張って「忘却術」を欲したテミストクレスの逸話(キケロ『アカテミカ前書』第二巻)から始まる。

テミストクレスは、なにゆえに忘却術を欲したのか。キケロの答えは、「見たもの、聞いたこと、あらゆる記憶が彼の頭脳にこびりついて離れなかったから」。あるいは、キケロがこの挿話の結末のところで付け加えている註釈によると、「それというのも、この男の体に注ぎ込まれた一切のことは、二度と再びそこから出ていなかったからだ」、と。(p. 31)

「忘れる」こと(および「捨てる」こと)は、いくらコンピュータ等が発達しても、解決できない問題として残される。むしろ圧縮やアーカイブ化の技術が発達すればするほど、忘れる(捨てる)ための智慧は、もはや必要のないものと思われて、忘れられていく。「ここに保存したらこっちは捨てられる」とか「こんなに小さいサイズで保存できた」とか、いま人間がやってることは「最終的に「捨てない」ために、目先のものをどんどん「捨てる」というゲーム」に他ならない。これは本当に怖いことだ。かつそれが単なる時間の無駄だとしたら…。近代=資本主義の原理、ここに極まれり、といったところか。
そこで私などは「近未来において、累積しすぎた人類の歴史と知識をすべて一枚のディスクに収める方法を考案した研究者が、そのディスクにすべてを詰め込み、膨大なアナログデータやモノを破棄した直後に、気が狂ってしまいそのディスクを破壊してしまうという星新一の短編小説」というのをつい夢想してしまうくらい、これはSF的な話だ。
なお今気が付いた、というか正確には前から気になっていて今これを書きながら確信したことだが、ボルヘス『伝奇集』(1944年)に登場するイレネオ・フネス、すなわち、情報の取捨選択・抽象化・忘却ができないがために日常のあらゆる些細な事をすべて記憶し(せざるを得ず)、19歳にして老人のように衰弱して亡くなってしまう「記憶の人フネス」のモデルは、このテミストクレスに違いない。ボルヘスキケロを読んでない訳はないし。その筋の専門家はすでに指摘しているかも知れないが、せっかく気付いたので一応書いておく。