京に居て京を見ず

京都に引っ越してからちょうど一年が経った。
一年経って京都に慣れたかどうかをあちこちで訊かれるが、積極的な意味で慣れた、というより、新鮮味・違和感がいつの間にか摩耗した、というのが正直なところ。どこでも生きていけるのは適応力云々ではなく、多分に人一倍鈍感だからだわ。
私にとって京都に慣れるかどうかという問題は、仕事(職場)に関してと生活に関しての二つの局面がある。
前者については、この一年間おかげさまで大変居心地よく仕事をさせてもらったので、もっとも国立大学的な国立大学からもっとも私立大学的な私立大学への異動(とこの一年よく人に説明してきたのだが)による戸惑いもミニマムで済んだと思う。自分が頑張れば頑張るほど周りも全体もうまく進んでいくという、やりがいのある良い環境にいると思っている(めでたくもそう思い込んでいるだけかも知れないが)ので、来年度は今年度よりはかなりハードになりそうだが、前向きに、攻撃的にやっていきたい。
それとこの一年(多くは大学関係者以外から)「どうして東大を辞めたのか?」という質問をよく受けたが、東大文学部の助教助教)というのは、多くの場合その研究室のOB・OGが任期付きで務める職なので、そのうちどこかに出て行かなくてはならんのです(私は三年任期の二年目で出ました)。ですから別に居心地が悪かったとか、喧嘩して辞めた(辞めさせられた)とかではありませんので、念のため。確かに、外から見たらそんな事情は分からんわな。同じ大学内でも聞かなくちゃ分からないことがしばしばなんだし。最近では助手以外の准教授・教授のポストにも任期付きが増えてきたので「大学教員=常に求職中」というくらいに考えていた方がいいのかも知れません(私の現職は任期無し)。
後者の生活面は、この一年も基本的に育児を中心に回ってきた。三十代前半は子育てに全時間を投入したみたいなものだから後半はできるだけ自分の時間(研究など仕事と重なる部分も含めて)にあてられるぞと期待しているものの、すでに数人から叩かれているように、きっとそれは妄想で、要は私の時間の使い方が下手なだけなのだ。従って、時間の使い方をもっと上手くする、というのが三十代後半の目標である。2009年はその最初の年だ。
話を戻して、東京には単なる遊び仲間や飲み仲間としか分類できないような友人がたくさんいるが、京都での私の交友関係は、もっぱら業界つながり(大学関係、音楽関係、アート関係)か家族つながり(子供の幼稚園や音楽教室など、あと京都には妻の友人が元から結構いる)に限定される。このうち特に後者は、これまで東京時代には出会わなかった人達が多いのでこの一年間、とても興味深かった。そしてそれは同時に、自分が住んでいる街(中京区近辺)を理解する上でも重要であった。
この一年、幼稚園での娘の同級生の親などと接して分かったことだが、私と同世代(子供が同年代という意味)で中京区近辺に住んでいる人の職業は、たいていが医者か飲食店か大学関係である。まず医者についてだが、普通に都心部として開業医がたくさんいることに加え、京都市の中心部には大学病院をはじめ規模の大きな病院が多いので、その関係者が住んでいる。後者には転勤族も結構多い。次に飲食店をやっている人だが、レストランとか喫茶店とか焼き肉屋とか老舗菓子屋とか、もう何でもあり。この人達は土地(家)を持っていてその一角で営業している形態が多い。従ってほぼ非転勤族。かつ大体富裕層。中にはテナント貸してるなんてケースもある。次の大学教職員は説明不要だろう。先月、京都新聞に「あきまへん! 大麻──京都市29大学へ啓発ポスター配布」という記事が出たが、私は内容よりもまず「市内の全29大学(系列短大などを除く)」という記述に驚いた。そんなに大学があるのかと。妻と一つずつ列挙してみたが半分も出てこず。東京の文京区とか八王子市でもそこまで密集してはいないだろう。肝心の内容は、「あきまへん」というのが「飽きない」という意味ではない、ということは京都語がまだ日常会話程度の私でも、前後の文脈から理解できた。大学関係者は学生も含めて(職員は別かもしれないが)転勤族と言っていいだろうな。以上の職種のうちで、経済的に一番恵まれてないのはむろん大学関係者だから、ホント御近所では肩身が狭いわ。細々と暮らしてます。
さて以上の職種の偏りに加えて、印象的だったのは、「電車に乗って遠くの街まで通勤する会社員的な人」が身の回りに皆無なことだ。娘の友達の親にもそういう人は一人もいない。東京時代には私以外にはむしろそんな人達ばっかりだったのに。この統計によると京都市中京区住民の平均通勤時間は33.4分。ちなみに私が前に住んでいた東京都北区は42.9分、その前に住んでいた東京都世田谷区は45.2分だから、中京区は大分短いことになる。確かに赤羽から東大まで駅からの徒歩を入れると40分近くかかっていたし、今の私の通勤時間は30分弱なので、この統計は個人的にはすごく当たっている印象。ちなみに東京と比較するなら港区が33.3分でほぼ並んでいる。通勤時間はもろにQOL(クオリティー・オブ・ライフ)に関わるので、その点では住みやすい、ストレスの少ない街と言っていいのだろう。
幼稚園の行事が基本的に平日である(運動会も何と水曜日にやった)とか、子供を送迎する父親が思ったよりたくさんいるとか、昨年六月に子供を幼稚園に入れて最初に不思議に思った諸々の事柄も、一年経ってみて、以上の点も踏まえ、ある程度理解可能な気がする。医者にしても飲食関係にしても大学関係にしても、きっと職場と家が比較的近く、時間も比較的自由になっているのだと思う(むろん父親がまったく姿を見せない家庭もあるから、現状が親にかなり無理を強いていることも事実だろう)。その一方、娘の仲良しの友達でも、父親が夜からの飲食店なので、幼稚園の送り迎えはできる代わりに、土日がまったく休めず、家族ぐるみの交流がなかなかできない、というケースもある(われわれ大学人も結構土日はふさがるから他人事ではないが、店を絶対に開けなくてはいけない方が大変なのは言うまでもない)。
以上は、同世代の子を持つ親の知り合いという、本当に薄っぺらい「一断面」を切り取っただけのサンプリングなので、中京区(周辺他区含め)全体の地域特性を考えるには、これに観光産業や少子化&高齢化、老後世代の流入(「定年後は京都で…」という福祉政策的には困った人達が実際に一定数いるらしい)、教育の地域格差共産党政権時代の全学区平等主義に対する反動として現在の格差容認があるらしい)の問題を追加しなくてはならない。
なお子育ての環境は正直、東京の方が断然よい。児童館の数とかも北区時代に比べて圧倒的に少ないし、健康診断や予防接種、医療費援助の体制も京都(市)は全然ダメ。東京時代は定期健康診断に行かないと電話がかかってきたりして、「行政から監視されている」感すらあった(それはそれでこのご時世なので仕方ないことだと評価していた)が、京都ではそんな様子もなし。子育ては自分達の知恵とお金で何とかして下さい、とでも言わんばかり。これも老人対策のために、市にお金がないからだと聞く。もちろん、よく知らないけど、自治体の財力・体力を東京と比べるのは可哀想な気もするが。この点でお隣の滋賀県は大分マシらしく、代々京都に住んでいる家庭の人でも、若い夫婦は京都ではなく滋賀(大津)に家を持つ、という例が多いのだそうだ。子育てがしやすいことに加えて、京都市中に比べて交通の便(鉄道網)がいい、車文化が発達している、などの理由があるらしい。「京滋地区」という言葉・文化圏の存在自体、私は京都に来るまで知らなかったし、滋賀には二度行ったことがあるだけなので、私自身は滋賀に住むという状況を全く想像できないけど。
とはいえ色々言いつつ、私も最近では東京に行ったら「なんでこんな(無駄に)人が多いんだろ」といっちょまえに思うようになりましたよ。
あと観光地の類は、一年に一度でいいから、地元住民がただで入れる日を作ってくれよな。いつも窓から眺めてるだけで結局、二条城(600円)に一度も行かなかったよ、この一年。当座これを二年目の達成目標とするか。しかしいつが空いてるんだろ。