辛い状況

久しぶりに某オーケストラの演奏会の曲目解説なるものを書いた。一年半振りくらいか。
三月末までスケジュールがぎっちりなので落とすかもなと危ぶんでいたが、たまたま一日半程、中途半端に空いた、変に手持ちぶさたな時間が生じたので、そこにうまくはめ込んで一気呵成に仕上げることができた。ホッ。
音楽学脳」(ノットイコール「音楽脳」)を久々に使った気がした。ということは今書いているヴァーグナー論はほとんど「思想研究脳」あるいは「歴史脳」しか使ってないんだなあと、改めて思い知った次第。
ただ、この某オーケストラのための仕事、もう十年くらい細々と続けているが、今回やってみて、そろそろ限界かなと少し思った。
理由その一は、いくら短いものとはいえ、曲目解説を書くには、楽譜と録音と(ある程度)最新の研究文献が最低限必要だが、それが今の環境では手に入らないこと。
今回執筆したのは私が大体手元に資料を持っているブラームスものだったから良かったが、そうでなければお断りせざるを得なかっただろう(というか編集者もそれを見越した上での依頼なのだと思うが)。
音大で教えていた時分は、本当に幸せなことに、この辺の資料に常時アクセス可能だったわけです。イタリア・オペラものとか、全然専門と関係なくても、時間が許す限り、そして興味が湧く限り、今思うと何でもやってたな。ほとんど一から調べてでも。
また理由その二は、演奏会文化から遠く離れてしまったこと。基本的に自分がプログラムを書いた演奏会は全部行くようにしてますが、東京を離れてしまったので、今は仮に招待券を頂いても行けないのが残念。たまたま出張が重なって、という場合は別ですが、こちとら新幹線で演奏会に通うほどの優雅な人種ではない訳ですよ(関西の演奏会はここでは別の話です)。これでまず大分モティヴェーションが下がります。加えて、前後左右の席の人達がどのくらい関心を持って読んでくれてるかをこっそりチェックしたり(端から見たら暗いというか怖いよな)、当日の演奏を聴いて自分の原稿の反省点を見つけたりなど、自分が書いたものを演奏会の現場で「検証」できないのも致命的。音楽に限らず、この種のプログラムノートは、「書くだけ」になってしまうと、書いている方も面白くないし、結果的に肝心の書かれたものまでが面白くなくなる危険性があると思う。
書くこと自体は楽しいし、ためになるし、とても好きなのですけどね。悩むところです。
まあ、私が音楽学者として認知されなくなるのも時間の問題だと思うから、仕事が来るあいだはできるだけ頑張って続けてみるか(笑)。そういえば最近は現代音楽関係の仕事は全然来なくなったしな。あっ、来ても何も書けないから来なくていいですよ、ホントに。
とここまで書いて急に思い出したが、先日、アポ無しで突然研究室にやってきた洋書業者さんが「MGG (Musik in Geschichte und Gegenwart) 第二版の Personteil がこの大学の図書館には無いんですよ」と自社のカタログを見せながら訴えてきたので、「それは非常にまずいですね。諸方面とも相談して来年度に考えてみますよ」とお答えしたら、先方は「ああ、よかった。実はホームページで調べたら先生の御専門はゲーム音楽と書いてあったから[吉田註:後で確認したら「感性学、五感の秩序、音楽学ビデオゲーム研究」が正確]こういうのはご興味がないかも知れないと思ってたんですよ」と安堵の声。書店の営業さんもどうやらオレ対策には困ってるみたいですね。混乱させてしまって申し訳ございません。
ちなみに「ゲーム音楽」の本は、私の知る限り、グローバルに見ても日本語のものが二、三冊あるだけなので、それだけではとても商売にはなりませんよ、洋書屋さん。しかしゲーム研究の洋書カタログ(英・仏・独)ならば、もし作った場合には私の他にもニーズがあると思います。ただしその場合、いわゆる「ゲーム理論 Game Theory」の文献(しかも膨大にある)が混ざらないように注意が必要ですが。
明日、出張(某会議)で東京に行き、赤羽泊で明後日まで滞在します。