第1回ビデオゲーム・カンファレンス報告

2月2日に行われたビデオゲーム・カンファレンスは皆様のおかげをもちまして、大盛況のうちに終わりました。
このGCOEの常として、そのうち全容がネットで動画配信されると思うので、そうなった段階でまた御案内します。来られなかった方も相当部分フォロー可能かと思われます。ネット配信はやっぱりありがたい。
私がコーディネートした第二部のワークショップは、ゲームの感性的次元を分析するための視点をこちら(私+尾鼻さん+川粼さん)が未完成なままに「投げ出し」て、ペーパー(見取り図のところどころに空欄を作り、各自の視点やゲーム作品名を書いてもらう)を配布して会場の参加者に記入してもらい、それを途中で回収し、それに基づいて指名しながら会場を巻き込んで議論する、という実験的形式(と書くと大袈裟ですが、内容的にも時間配分的にもうまくいくかどうか全く保証がなかったので、一応)でやりました。私が「空間・運動」、尾鼻さんが「音・音楽」、川粼さんが「対戦」という枠で、それぞれ五つくらいのテーマ(視点)を出して、それぞれ三つくらいゲーム(ファミコンに限定)の事例を動画等で紹介する、という形式です。第一部のパネリストや会場の皆さんの積極果敢・攻撃的な参加のおかげで、時間配分も含めてうまく進み、きわめて充実した時間になりました。
ビデオゲームに関しては、われわれ(研究者)は視点を設定したり、議論の舞台を整備したりすることはできるが、ゲーム経験(プレイヤーとしての)はしばしば圧倒的に不足しているため、個々のテーマの中身を埋めていく作業は、いわばオープンソース的にやる他ない。そういうテーマなら他にこんなゲームの例があるよ、誰も知らないこんな珍しいゲームがあるんですけどどういう風に分類・分析できるんでしょうか、といったことをバンバン言って頂きたいわけです。そのために今回のような会場の全員に頭と手を動かしてもらうワークショップという形式はたいへんよかったと思っています(経験上、質問の時間を長く取って挙手とかしてもらっても、どうせたいした議論に発展しないものですから)。多分(少なくとも)日本では、こうしたゲーム学の試みは初めてではないでしょうか。
クリエイターがあまり親切に作り込みすぎると、プレイヤーはかえってやる気が削がれてしまう。クリエイターの「意図・主張」は、しばしばプレイヤーにとっては押しつけにしかならない。ビデオゲームは芸術作品などとは違って、クリエイターとプレイヤーのどちらがそれを「作っているのか」境界が曖昧である(製作途上でテストプレイが重視されるなど)。というのが、第一部のシンポジウムの結論(もどき)だったので、結果的に、われわれの第二部もそこにうまく接合されました(私は芸術学者なので、そういう話を聞くとゲームのプレイヤーを「解釈者」や「演奏者」に例えたくなるのですが、その種のパラフレーズが通用しない業界なので、少々寂しくもあります。最低限でいいので人文学的素養をもったゲーム研究者が増えてくれればもっと楽しいのにな、と願うだけです。願う「だけ」というのは、それは私の仕事ではないだろうなと思うからです)。
たまたま来てくれた某A新聞の記者の方が(私と同じファミコン世代ということもあり)強く関心をもってくれて、後日改めて取材を申し込まれました。で本日、さっきまで私の研究室でその取材&写真撮影をやっていて(与太話もまじえてすごく盛りあがり、二時間以上喋ってしまいました)それが終わって帰宅し、これにてようやく一段落、イベント終了といった感じです(もし記事になるような場合にはまたここで御案内します)。
さて日常業務に戻らないといけません。ふと気付けば世の大学は入試の真っ最中です。受験生も教職員も皆さん頑張りましょう(棒読み)。あと私は、早くゲーム脳からヴァーグナー脳へと頭を戻して、本を仕上げないといけません。
とはいえ来週中頃は出張で東京におりますので、夜にでも誰か一緒に遊んで・飲んでください。本郷にも顔を出しちゃうぞ(予定)。