謹賀新年的暴力

少し時間ができたので年賀状を作った。今年も例によって子供の写真がメインである。下の子が生まれたこともあり、私と嫁さんの写真が入る余地は無くなった。
年賀状を作っていていつも感じるのは、今年もまた年賀状によって年始から公私の交錯に起因する様々な心情の軋轢がもたらされるのだろうなということ。
独身時代にはそんなことにはまったく無縁だったのにな。
数年前、先輩の研究者(40代後半、男性、独身)にこう言われたことがあった。
「おまえの年賀状、幸せそうだな。でもあまり幸せそうに自分をみせると損するぞ。仕事をもらえないかも知れないぞ。」
まず私が思ったのは、多くの人が(少なくとも言葉の上では)子供の成長を祝福してくれているなかで、この人はなんて器量の狭い、可哀想な人なのだろうということ(実際、業界内でもそうした評判で通っている人であった)。そして、同情をひかなければもらえないような仕事はこっちも初めから欲していないよ、と。
しかし後になってこうも考えた。40代独身男性の心には、容易に想像できない、同じ立場になってみないと理解できない闇が広がっているのだろうなと。そして、何らかのきっかけでそうした人を不快な気分にさせてしまい、仕事がもらえないなど実生活の上でネガティヴな結果をもたらすなら、それはそれで私も困るな、と。
確かに、純粋に仕事上の付き合いの人に対して、家族の写真が入った年賀状を送ることの実利的なメリットはないかもしれない(私がもらう立場ならばその方が嬉しいけど。会ったときの話題が広がるし、その人を別の角度から理解できる貴重な機会だし)。私と嫁さんも一度か二度は、複数のデザインを作って、出す人によって使い分けたらいいんじゃないかと話し合ったことがある。
しかし、私は日頃の信条・倫理として、あらゆる人に対して同じ態度で接する、ということを心がけているので、すべての人に同じものを送るという原則を貫くことにした。出す人によっては後で会ったときに「親馬鹿ですみません」とか謝ればいいのであって、初めから人をみてデザインを選択することは、それこそ自分の心のなかにやましい差別心を生んでしまうように思えるからだ。まるでその人の教養を、年齢や性別から予め判断してしまうかのごとく。
例えば、子供が欲しいのにどうしてもできない(ということをこちらも知っている)友人のカップルがいたとする。彼(女)らは、われわれの子供が映っている年賀状を見て、多少ともうらやましく、場合によっては不快に思うかも知れない。しかし、だからといって彼(女)らのために、別のデザインの年賀状(写真が入っていない文字だけのバージョン等)を準備するなら、それこそ、予めこちらで勝手に彼(女)らを「子供がいる夫婦に嫉妬するような人々」として差別していることになる。他者の欲望の先読み=捏造の典型的な事例であろう。こちらは気を使ったつもりでも、そうして区別すること自体が、彼(女)らを大いに傷つけているのだ。そしてもし彼(女)らが、別の友人の話などから、こちらが年賀状を人によって出し分けているということを知ったときには、それこそ実際に致命的に傷つくであろう(少なくとも私がその立場なら区別=差別されたことに大いに傷つく)。
だから、結果的に安易に見えても仕方ないとはいえ、私はすべての人に同じものを送るのである。それに対するフォローを個々に行えばよいのだ。これは自分が発信するテキストに対する反論、誤読にどう対処するか、という問題と似ている。この手の人はこう読むだろう、またあの手の人ならこう読むだろう、ということはテキストを書いている時点で予想できるわけで、できれば個々の読者(層)ごとに異なる言葉遣いをし、異なる注釈を加えたいところだが、そうはいかない。発信する際には一つのバージョンとして出さなくてはならない。言い訳や後始末は、事後的にそれぞれの場面で行えばよろしい。またそうするしかない。それがテキストだ。
かくして親馬鹿が正当化されたわけですが、とかいいながらアレですね、あと何年かしたら、私の年賀状からも家族の写真が消えるかも知れないので、そのときこそ大いに同情して下さいませ、世の諸先輩方。