フリーター生産工場としての大学院

水月昭道高学歴ワーキングプア──「フリーター生産工場」としての大学院』をさっそく読んだ。
何かまあ、文体とかオチの付け方などがまったく私向きではなかったが、全体としては面白かった。火曜日は電車で長距離移動なので、往復の時間プラスアルファで、一日で二度読んでしまった。
大学院修了生の就職難は「個人の資質」の問題ではなく「構造(政策)」の問題であるという、当事者達はとっくに肌で知っていることを著者は繰り返し強調する。
新たに得た認識はごくわずかだが、別にそれでいいと思った。
多少ショッキングなタイトルを付けて、この問題を一般に認知させることが、まず第一歩だと思うから。議論はおおまかで主観的でもかまわない(この本がそうだという訳ではない。意外によくデータを拾っている印象)。
この世界にいきる誰もが「誰でもいいから早く書いて欲しいよな」と思っていながら、誰も(少なくとも私は)自分では実行しなかった(書く時間とそして勇気がなかった)いわばボランティア的な仕事を、著者はやったのだ。それで十分だ。感謝こそすれども、細かい点にケチを付けようとは思わない。
何より、これから大学院を目指そうとする若い学生に、「まあ、とりあえずこれを読んでみてから」と言える本が出てきたのは、とても助かる(今日も研究室で四年生に薦めておいた)。
もし自分がうまく就職に成功した場合でも、今度は自分の後輩が、そしてさらには自分の学生が、同じ問題に直面するだけ。大学の世界で生きる限り、一生付き合わざるを得ない問題だ。
ただ一つ気になったのは(この本の内容自体の問題ではないのだが)この本が、一連の「下流」本、「格差」本と同じカテゴリーとしてプロデュースされ、流通している(らしい)点だ。
光文社新書というシリーズがまずアレだし、Amazonの関連本をみても、その手の本が並んでいる。
だが、本当に同じ次元で捉えるべき問題なのか?
もしそうなら、大学法人化など小泉改革のなかで生じた諸変化のなかで大学院重点化を捉え直し、その視野の下での考察を全面的に展開しなくてはならないはずだし(著者は必ずしもそう考えていないようだ)、もしそうではないなら、一応両者は切り離して考えるべきだ。曖昧なかたちでリンク(連想)させるべきではない。その場合、このタイトルの付け方はむしろ危険である。
これは本当は別の機会に書こうと思っていたことだが、今盛んに「消費」されている「下流」とか「格差」とか「ニート」という語は、あと数年のうちにジャーナリズムから忘れ去れてしまうだろう。実際の人々の存在を残して。恐ろしいことだが、ジャーナリズム(そして政治)はいつもそうだ。三浦さんの『下流社会 第二章』(およびそれに対して多く見られる「もういいよ」的反応)がすでにその悪い兆候だ(パフォーマティヴな観点から、光文社はSPAの扶桑社と同罪ではないのか。また三浦さんの本は基本的に「コピーライター」の仕事であり研究者の仕事ではない、ということの「諸刃の刃」性に気付いていない読者が多いように思える)。そうこうしているうちに、それらは「解決すべき社会問題」の座から降ろされ、ニートワーキングプアの存在は「既成事実化」(目をつむり、黙殺されるべき存在として)していく。これはむろん最悪のシナリオだが、そうさせないためにも、とりあえず想定内にしておく必要はある。
自分たちに非難の矛先が向かうのを避けるために、文科省(どれほど実体的な自立的政策主体かは分からないが)は「高学歴ワーキングプア」問題を「なかったこと」にする危険性がある。方法は簡単だ。例えば素人の私が考えつく限りでも、「今後は社会人入学を大学院進学の基本コースとする」と変更すれば、修了生の就職難の問題は回避できるし、「今後は本務校を持たない人を非常勤講師として採用するのを禁じる」とすれば、いわゆる専業非常勤講師の問題も一発解決だ。今後はすっかり健全化されます、ただ今までの人は残念でした、というわけだ。むろんこれも最悪のシナリオだが、われわれはつねに最悪の事態を想定内に置いて状況に立ち向かわなくてはならない。実際われわれは学会事務センター破綻問題で、一度最悪のケースを目にしているはずではないか。そしてあれもすでにきれいさっぱり「なかったこと」になっているではないか。
大学院修了者の就職難の問題も、この本で終わらずに、「中公新書ラクレ」あたりから少しカタめのタイトル(論争とか徹底検証のラインナップでよいので)が出てくれることを期待する。アンソロジーであっても、見解や立場を異にする複数の論者が書いたものがいい。
とはいえ、この本は「任期が切れる〇八年春以降の身分は未定」と自称する著者が、自己言及的あるいは自嘲的に語るから、面白いんだろうな。これがすっかりエスタブリッシュされた研究者(いわんや役人上がりおや)によるものだったら、読んでて腹が立ってしょうがなかったかもしれない。
今日は、ある研究所から依頼された紀要論文の査読の締切日で、本当はこんなこと書かずに査読報告書を書くべき時間帯なわけだが、こんなこと考えてる私は今、人様の論文を審査する気分には到底なれんのです。ここを見てましたら、大変すみませんが、明日以降、また気持ちを入れ替えて頑張ります。