今更だがフェルミのパラドックスについて

aesthetica2007-09-14

さっきちらっと見た爆笑問題が学者を訪ねるNHKの番組(多分『ニッポンの教養』)で、タイムマシンの問題に関連して、フェルミパラドックスが取り上げられていた。
地球人以外の文明が存在する可能性は相当高い、ということは知られている。なのに、そうした文明が地球人に接触してこない(その証拠がない)のは何故か、これは矛盾ではないか、というものだ。
 これは言い方を変えれば、惑星探査機パイオニアに取り付けた金属板(1972〜73)やボイジャーに搭載して発射したレコード『地球の音』(1977)の感想なり(せめて)御礼をどうして宇宙人が返してこないのか、という問題でもある。
これについては昔にもちょっと書いたのだが、地球外生命なるものの知覚や認識の形式がわれわれ地球人とほぼ同じである、という致命的に素朴で楽観的な前提に基づいて作成されたメッセージ(というかわれわれにはそれ以外できないわけだが)である以上、われわれにそれとして分かるような返事が戻ってくる可能性は限りなく低いと言わざるを得ない。まずこの図を見てくださいよ。やれ人間中心主義であるとか、誰でも思いつく批判の大半はWiki「批評」の欄に書かれているわけですが、私だったら、仮にこの金属板が道に落ちているのを明日発見して、あっ例のアレだと分かっても、まず無視しますね。無視してゴメンね、貧乏暇無しなの許して、と心の中で言って。拾った人が記名してそのまま郵便ポストに投函すればオッケーくらいの気軽さ(NASA様宛のエクスパックも一緒に落ちてるとか)だったら、少しは考えなくもないですが。
それと、この男女の絵を描いたカール・セーガンという天文学者は、せめてケネス・クラークの『ヌード』(1956年)くらいは読んでから描いて欲しかったですよ。もう出版されてたわけだし。曰く、裸体(ヌード)はもろに理念が出ちゃうから風景や動物と違って決して「写実」できないんですよ! 「普遍的なヌード」っていうのは、図像的に一番ありえないんですよ! だったらまだダヴィンチあたりのコピーの方がマシでしたよ。少なくとも、この裸体図が落ちているのと見て、オッと言って拾うのは、間違いなく小学校なら低学年まで(しかも半ズボンの男子のみ)ですね。また、男女一組というのもどうなんでしょうね、普遍的なんですかね? 子供がいた方がいいとか、大家族の方がいいとか、社会学・生物学的にそういう判断はないんですか? それと服を着てないのは、確かにより普遍的でいいですが、前を隠さないのはそれでいいんですか? これじゃあ何だか、エデンの園から追放される前の二人みたいで、もしかしたら先方にとっては趣旨がちょっと分かりにくいかもしれませんよ。先方が無原罪でもない限り、どうして前を隠さないんだ? こいつらは蛮人か? と普通は思われますよ。男性は右手で「友好のポーズ」を取っている場合ではないはずですよ。どんな友好ですか。(そう考えると、一種の「宗教画」として厳密に解釈できる気がしてきた、これは。)
そもそも、向こうが意味を理解するかどうかと、その上で返答というコミュニケーション行為を取るかどうかと、その返答がわれわれ地球人に認識できるかと、と各段階がまったく別個な理論的次元にあり、それぞれが複雑な問題をはらんでいるわけです。こっちの存在が了解された上で単に「無視」されているかも知れません。もう少し頑張らなくちゃ、地球人! というオトナのメッセージかも知れません。あるいは大地震とか天変地異とか、そういう「別の形式」で向こうはすでに何度も返答を行っているのかも知れません。こんなに揺らしているのにどうしてわれわれに気付かないんだ、地球人! じゃあ次は空気抜いちゃうよ! などというわけです。とにかく、こっちが送った金属板に対して、先方も、自分たちの裸体像(オス、メス一体ずつ)と自分たちの惑星の位置を描いた同じような金属板(あるいはあちらの星の音楽を吹き込んだレコード盤)を送り返してくる、という確率はゼロでしょう。ですからそんな状況はパラドックスの条件から数学的に外すべきです。そんなのが送られてきても、絶対偽物ですよ。第一、人間同士のコミュニケーションでも、そんな相手をバカにしたようなオウム返しは失礼ですべきでないですから。
ああ楽しくてしょうがない。この問題はホント、職業柄というより、一人間として、もろ私のツボです。話相手がいれば酒を飲みながら一晩中語れますね。次の日の夕方までこれをネタに飲めるくらいです。何が面白いかって、この金属板(レコードもそうですが)には人間的なものの限界が、ほとんどカント哲学ばりに露呈しているからです。もちろんこうした限界へのチャレンジは、知的にみて、たいへん重要なことです。現代人(当時のNASA周辺の人)は宇宙人くらいを相手に想定しないと自分たちの限界を考えない、ということでしょうか。ただ、これを発案して実行したということ自体、人類史におけるNASAアメリカ)の一大業績ですよ。仮にも哲学者やアーチストを名乗る人達は、やつらにしてやられた!と激しく後悔・嫉妬すべきです。ちなみに、男女の裸以外にこの図に描かれている事柄は、中性水素、探査機の外形、 銀河系、太陽系の四つということですが、こうやって考えると、NASAに渋い顔をされながら裸図を描いた(五つのうちに入れた)セーガンはあっぱれだったと言わざるを得ませんね(女性器の詳細な線を消すかどうか駆け引きがあったらしいです)。前者四つだけだったら、宇宙人はおろか、間違いなく小学生から大人(私)まで誰も拾いませんよ。パッと見でイラネですよ。でも、あなたなら何を描きますか?
私はヴァレリーの『人と貝殻』について考えるとき、いつもこの宇宙に送られた金属板のことを思い出す。貝殻が芸術作品(人がつくった作品)ではない、というのをわれわれはどうやって判断・結論するのか、という問題だ(古くはカントの『判断力批判』における有機体の合目的性の説明にも同様な議論があるが)が、この逆の過程をやろうとしている(宇宙人に対し、いかにこれを自然物に見せかけず、地球人の「意志・意図」を示すか)のがパイオニアの金属板だ。これについてはそのうちちゃんと考えたい(そのための時間が欲しい)のだが、そのときは一種の対蹠問題としてフェルミパラドックスについても合わせて考えなくてはならないなあ、と今日思った。
通常、これが人為物(作品)であるという判断は、これは自然物ではないという判断の裏返しであるわけだが、だがこの境界は、人類にとってすら普遍のものではまったくない。実際、世界=自然を神の創造意志の実現(しつつあるもの)とみる立場からは、貝殻の形式だって、ある種の「作品」として理解できるし、ユダヤ教のラディカルな一派は、この世の事物はすべて聖書の時代に「一挙に」作られたものであり、それ以前の時代から存在するようにわれわれが考えているもの(先史時代的の遺跡等)は旧約時代に神がわざわざと古い時代の遺物を装って新たに作り出したものだ、という説を今でも取っていると聞いたことがある。逆に、われわれが苦労して作った金属板を、いやわれわれ人間という生命体自体を、宇宙人が「自然物」とみなし、特に気に留めずに流してしまう、ということも十分ありうる。多くの地球人が、貝殻のなかに特に誰かの意図やメッセージを見ようとしないのと同じく。
あと楳図かずおのマンガにあったみたいに、いざ出会ってみたら生命体としての大きさが全然違うとか。たとえ知的レベルが同等でも、あなた、10,000倍とか20,000倍くらい体の大きさが違ったら(宇宙論的にはありえない数字ではない)普通はなかなかコミュニケーションが取れませんよ。例の金属板にブチ当たって、あちらの文明が滅びた可能性だってありますよ。あちらが大きすぎて、あるいは小さすぎて、われわれが気付いてないだけで、宇宙人(あるいはそのメッセージ)はもうすぐそばに来てるかも知れませんよ。昨晩、寝ていてプーン、パチとかね。
なおフェルミパラドックスに対する諸反応のうちでは、番組で学者先生も言っていた「自滅説」(=宇宙にメッセージが飛ばせるくらい文明が高度に進むと、核戦争や著しい環境破壊などの事態を引き起こし、その後短期間に滅亡してしまうため、という仮説)というが現時点では私にも一番説得的(かつパフォーマティヴに最も善)に思えました。想像上のラブレターの返事が絶対来ないって分かっていても、それを待つことをせめて明日の糧とできて、自暴自棄になるのを止すとすれば、素晴らしいのではないでしょうか。なんてね。
今日は某紀要論文の英語版要旨を書くという仕事(締切はとっくに過ぎ)のために、ICCでの坂本龍一+高谷史郎のLIFE展の内覧会&レセプションを欠席したわけですが、こんなこと書いてる暇があるんだったら行っても良かったのではと…。最近英語で書いていないので、分量的にたいしたことなくても、よほど興に乗らなければ筆が進みませぬ。