あんまり暑いのでこんなことしか考えられません

暑いときにおもわず「暑い」と口走ってしまう行為は、言語行為論(語用論)的にはどう説明されるのだろうか。
オースティンのいう「命令」「依頼」「約束」は全部違うしな。
暑いという事実を「記述」しているわけでも「確認」しているわけでも「約束」しているわけでもないしな。
美味いときに「美味い」というのと、いくときに「いく」というのと、暑いときに「暑い」というのは少し違うしな。
「暑い」って言うのを聞くといっそう暑くなるから言わないで!という主張をよく聞くから、必ずしも、他人と気温の程度を確認・共有するための言語行為とも違うしな。
この時期、炎天下の道を歩いていると、お互いに顔を知らない同士でも「暑いですねー」「そうですねー」とごく会話が成立してしまうのだが、これは別に他人とコミュニケーションを取りたいから言っているわけではなくて、そう言うことで暑さから少しでも注意を逸らそうとしているだけだしな。
言語的発話行為というよりも「ため息」みたいなものと近いのかもな。
冷房のない部屋でパチパチと仕事をしていると「暑いところではモノが考えられないから、暑い地域では高度な文明が発達しない」という迷信がバカにできなく思えてきますが、この説を最初に唱えたのは誰なのでしょうか? どなたか出典を知っている人いますか? 「北方人」に間違いないとは思うのですが。