議場や法廷にも国旗を

という一面の大見出しがついた『日本時事評論』が郵便受けに投函される。何すかこの新聞は? 半年くらい前からうちに入るようになったんですけど。と思って、ネットで調べてみると「保守系の仏教団体「新生佛教」の会員や社会への啓蒙活動の一環として発行されている」とありますが、近くに熱心な方がおられるのでしょうか。北区赤羽三丁目近辺で他に入っている方いますか?(ってここで聞いても…) この新聞、「保守系」だそうですが、主張がベタというか素朴すぎて、もしや保守のパロディかカリカチュアを狙っているのでは?とうがってしまう程です。おそらく、いつも同じ人(それも一人か二人のさほど頭脳明晰ではない方)が書いてるからそういう印象を与えるのでしょうが、感じとしては、鳥肌実の演説(を笑えなくしたもの)を聞いてる気分です。ご立派なお考えはよく分かりましたので、もう要りません。それと、うちにこれを投函してくれた方、議場はもちろん大事ですが、ご自宅の玄関にもぜひ毎日国旗を掲げてください。どのお宅か偵察に行きますんので(笑)。

今日、友達の編集者から届いた本。レイラ・アーザム・ザンギャネー著/白須英子訳『イラン人は神の国イランをどう考えているか』(草思社、2007年2月)。以前、この本に出てくる「Highest form of morality is to not feel like home in one's own home」というアドルノの引用の出典を知りたい、という質問を受けたことがあって、教えてあげたらお礼に本を送ってくれました。この英文をネットで検索しても、ヒット数はそれなりにあるが、この本に関するコピーのコピーみたいな情報しかなく、出典を示しているようなものはない。なるほどこの手の問題はインターネット・リテラシーがいくら高くても限界がある。もちろんネットでの検索くらいなら、編集サイドでもできる。訳者や編集さんが行き詰まったので、「専門家」が登場するわけだ。
で私がやったことは
(1)英文から確実に同定できそうなドイツ語を推測する。この場合なら「morality=Moral」とか「form=Form」とか。と同時に冠詞の格支配のヴァリエーションを推測する。「der Moral」かな、とか。これはドイツ語中級クラスの能力。
(2)アドルノのどの著作かを推測する。この場合だったらキャッチーなフレーズ(「アウシュヴィッツの後で…」とか)が並ぶ(というか引用者が好んでそのように使う)『ミニマ・モラリア』が臭いな、とか(これは結果的に正解)。これはアドルノの入門書を数冊読んでいれば誰でも身につく「勘」である。
(3)アドルノ全集のCD-ROMで検索をかける。これはPCが使えれば大体の人ができること。
つまり私は「専門家」とはいえ、ごく基本的な能力しか有しておらず、その作業時間がわずか20分程度で済んだのも(3)のCD-ROMの技術的恩恵であることは明白である。しかし同じCD-ROMを持ってる人が誰でもこれをできるかといえば、そうではないだろう(何しろアドルノの全集の原文データはネット上に落ちてたりするのだ)。「専門家性」とはオモロイなあと改めて考えさせられた次第。
ちなみに(おそらく)正解は以下の部分(後半部)。
»Es gehört selbst zu meinem Glücke, kein Hausbesitzer zu sein«, schrieb Nietzsche bereits in der Fröhlichen Wissenschaft. Dem müßte man heute hinzufügen: es gehört zur Moral, nicht bei sich selber zu Hause zu sein. (Th. W. Adorno. Gesammelte Schriften. Bd. 4, S.43)
誰が最初に英訳したのか分かりませんが(『ミニマ・モラリア』の英訳者?)かなり違っていますが…。かたちだけでなく文章の意味もまったく違って引用されてますよ。アドルノが皮肉でいってるのを、リテラルにとってますけどいいんでしょうか。まあ、こういうことをうるさく言うのも「専門家性」ということで(笑)。
あっ、本自体はとても面白いですよ。『テヘランでロリータを読む』のアザール・ナフィーシーや、映画監督アッバース・キヤーロスタミー(こう表記した方がイラン語に正確らしい)の文章も入っています。イラン人インテリ(しばしば国外在住)の語るイラン、イラン国民にとってのイラン、マスメディア(主として欧米メディア)が描くイラン、これら複数のイラン・イメージの確執が主題です。アメリカとの関係においてイランとイラクは奇妙な対称性(時差を含んだ同一性?)を持っているので、核査察問題でごたごたしているイランはもちろん、イラクの今後を考える上でも興味深いはずです。

以下、二歳児との対話篇。「おかあさんは?」「やさしい」。「おとうさんは?」「こわい」。「おじいちゃんは?」「こわくない」。「おばあちゃんは?」「こわくない」。「もう一度聞くよ。おかあさんは?」「こわくない」。「おとうさんは?」「こわい」。(以下繰り返し)
こんなに親バカで知られる父親なのに「こわい」とはなあ。まあいざというときにガツンと怒るのは確かだけど。怒ってる頻度は母親の方が多いはずなのに…。まあ「厳しい父親」もきょうび悪くないか(開き直って、ニヤニヤ)。
で、今日風呂に入っているときに思い切って聞きました。「おとうさんのどのへんがこわいかな?」「ほっぺ」。?? 「どっちのほっぺ?」「あのね、こっち(左を指して)のほっぺ」。?? 「りーが寝てるとき、おとうさんのこっちのほっぺ、こわいの」。?? さすが「魔の二歳児」恐るべし。