mixi中毒とは何か?──見られる(かも知れない)ことの快楽と苦痛

mixi中毒」なるものが一種の社会問題として世間をにぎわしている。
新しいメディアなりコミュニケーションツールが登場し、普及し、しばらく安定状態を経た後、必ず出てくるのがこうした弊害論である。
これはe-mailしかり、携帯電話しかり、2ちゃんねるしかり。そもそもインターネット自体、そうした批判に晒された時代もあった。
SNSにそうした弊害論が出てきても何ら不思議ではない。むしろ今がちょうどそのタイミングなのだろう。
しかしこうした弊害論は、時間が経てば(解決はされないまでも)風化する。
例えばe-mailやインターネットの存在自体(個別の問題はあるにせよ)が今さら社会問題にされることはないだろう。
SNSもそういう意味で今が「試練の時」で、時間が経てば、空気のような透明な存在になるだろうから、静観していい、という考えもありうる。

だが(それではつまらないので)ここでは、mixi中毒はこれまでの携帯電話依存症や2ちゃんねる中毒とは何かが質的に異なる、という仮定のもとで、その本質を考えてみたい。
mixi中毒度チェック」のサイト(http://q2a.10u.org/qes/mixi_qes.html)には全部で33のチェック項目があるが、そのうち大きくみて前半がmixiに特有の事柄(作ったコミュの数は?、キリバンは嬉しいか?等)、後半がインターネット(文化)全般に関わる事柄(mixiのせいで睡眠障害になったか?、仕事に支障が出たか?等)となっている。
例えば以下のようなチェック項目は、mixi以前にも存在した問題を扱っている。
「 Q9 : ログインして日記にコメントがついていないとがっくりする」
これは2ちゃんねるのようなネット掲示板サイトでも同様である(あとでみるmixiナルシシズムの問題はあるにせよ)。
「 Q31 : ログインしないと禁断症状が出ますか?」
これもある程度、インターネット文化全般に言えることだろう。

反対に明らかにmixi特有の問題を扱っているといえるのは以下のような項目だ。
「 Q14 : mixiに招待した友人は10人はいる。」
招待状がないと入れない、という排他的でもオープンでもない巧妙なネズミ講的システム。最初は警戒していた人が、次には喜んで他人を招待するようになる。これで「10人以上招待したらステージがあがる」とかにしたら、ただのカルト団体になってしまうわけだが。
「 Q21 : mixiのせいで、ナルシストになってしまった。」
これ、良くも悪くもmixiの最大の功罪だろう。例えばコミュニティ一覧にしても「こういうものに興味がある」という原則よりも「こういうものに興味があると人に見られたい」という欲望が優先的に働いてしまう。この点、自分のウェブサイトのリンク集とは決定的に違う。自分が関心がある(と人にみせかけたい)ものを「アイコン」のかたちで無制限にべたべた貼り付けられるのは、mixi以前にはなかったアイデンティティのあり方だ。このいわば「Iconized Identity」はひとえにmixiならではの優れたインターフェイス(それ自体は評価できると思うが)のたまものだ。
「 Q27 : 他人の足あとがどうしても気になってしまう人。それって、足あと恐怖症?」
この「足あと」というのも、mixiで新たに導入された要素である。もちろん通常のサイトでも、どこから誰が見に来たかトレースすることは可能なのだが、mixiはそれを「足あと」というかたちで明示し、積極的な情報に切り換えた点が新しいのだ。これが上のナルシスト問題を助長していることは言わずもがなだ。しかし、見知らぬ他人の足あとが気になるくらいでは真の「足あと恐怖症」(あるいは真のナルシスト)とは言えまい。「他人のページに自分の足あとを残す」ことに対する恐怖症。これこそが真にmixi的なナルシスティックな感情である。
つまりmixiにおいては「見られる(かも知れない)快楽」が「見る快楽」を(完全にとは言わないが、ほんの少しだけでも)上回っているのだ。

だが「見られる(かも知れない)快楽」は、「見る快楽」以上にやっかいな、扱いにくい代物である。それは満たされ(きれ)ない欲望、つねに「苦痛」と表裏一体な快楽である。ともすれば神経症的な精神の病につながる。
「 Q18 : mixiのせいで、背中を気にするようになってしまった。」
この項目の存在は、mixiのなかで培われた神経症的な精神傾向が日常生活に延長しうることを示す。
もちろんこの「見られる(かも知れない)快楽」は、mixi以前(さらにはインターネット文化以前)にも存在していたもので、現在でもmixiに限られないものだが、それが全面化したのがmixiのシステムということだ。mixiに参加している人のうち「見られる(かも知れない)快楽あるいは苦痛」と無関係でいられる人は稀有だろう、ということだ。

最後に、今後のことを考えると、mixiという特定のサービスをどこまでSNS一般と同一視していいのかという問題がある。
mixiよりも技術的・インターフェイス的に優れたSNSのサイトが出現しても(遠からずするだろう)ユーザーがすぐに移行することはないだろう。
ユーザーは、mixiで時間をかけて築いてきたプライスレスな「関係」を白紙に戻すようなことはしないはずだ。
この「関係」はmixiの内部でしか成立し得ない「ローカル」な関係であり、これこそがmixiをインターネットの世界から隔てているものなのだ。
そしてわれわれの多くは、ローカルを関係性を同時に複数操るような時間的・精神的余裕と器用さを持ち合わせていないと思われる。
つまり複数のSNSに入ってやっていくのは多くの人にとって端的にキツイということだ(一つのSNSに複数のIDを使い分けてログインすることはそれとは反対でそう難しくないと思うが)。

またSNSというのは本来、窓口としては一元化されるべき指向性を持っている(それを補完するために、その内部に複数の関係性の軸(マイミクやコミュのような)があるわけで)。現在、地方自治体が新時代の近所付き合い・自治会のあり方としてSNSのシステムに大いに関心を示しているのだが(私の地元では、地域振興に関わる若い人達の集まりでそんな話が出ている)、そこではSNSは「一つ」であることが前提となっている。このままmixiが肥大化して、そのID(mixiのIDはYahooなどと違い、全て通し番号というのがポイントだ)がそのまま年金番号住民基本台帳番号と連動するのもたやすい。怖い話だが、そのうちそういう議論が出てきてもおかしくない。

今後、SNSという概念がmixiを喰うのか(Yahoo Daysのような他社のSNSmixiを脅かすのか)、あるいは逆にmixiの方がSNSという概念を喰うのか(マイクロソフトがOSという概念を喰ったように)、実に見物である。私の予想は、上に書いたような理由によって、後者であるが。