組ってなんだ

こんなことオレがいう必要は微塵もないのだが、なんだかんだ言われながら実際すでにこの社会にかなり広く定着したと思われる「勝ち組」と「負け組」の概念に関して薄気味が悪いのは、「勝ち負け」ではなくて「組」の方である。
実際そういう発言を前にしたことはないし、もし聞いたらその場で殴るだろうが、「自分は勝ち組」だとのたまう人間は決して「自分は勝った」とは言わないのだろう(「組」とか言わずにただ「俺は勝った」と言う奴がいたら軽蔑どころか本気で敬服するよ)。実際、そいつらは決して独力で「勝った」わけではなく、その勝利はそいつが飼われている「組」(会社なり業界なり)から外的にもたらされたものにすぎないからだ。それを自覚しているからこそ、そいつは、自分は「勝った」ではなく自分は「勝ち組」だという言い方をするのだろう。そして自分の能力や努力に関わりなく、いつ自分がその「組」からドロップアウトするか分からない、という不安もまたそこには潜在している。すなわち「勝ち組」と「負け組」の構造がじつは安定していないということを知っている人間、あるいは今まさしく両者の境界上を漂っている人間こそが、このレッテルに好んで飛びつき、他人を名指し、自分を名指すのだろう。本当の意味で「勝ってる」人間は、「飼われて」いるのではなく、まさに「飼ってる」人間なわけで、おそらくそいつらは、「勝ち負け」の自覚はともかく、少なくとも自分たちを「組」の一員としては意識していないはずだ。
しかしそれにしても、この日出るところの国民がこうまで「組」を好むのはどういうわけなのだろう。それはいわゆる「階層」や「階級」とは本質的に違った概念である。「上流階級」vs「下流階級」の戦いでは、構造的にいって後者に絶対に勝ち目はないが、「勝ち組」vs「負け組」であれば、十回に一度くらいは、ひょっとしたら、後者が勝ってしまうのではないか、と期待させるところがある(その意味で楽天イーグルスの存在は大いにアクチュアルな意義をもつ)。運動会でもいいし紅白歌合戦でもいいのだが、どうも「組」というのは、本来、同質なところに無理やり差異・対立を持ち込んで、スタティックな現実世界を祝祭的にアクティベートするための装置に思えてならない。結局は対立などなく、馴れ合いである。上下関係の固定化を回避する装置。あるいは固定化された上下関係・利害関係の構造を隠蔽し、温存するための表面的アクティベーション装置。それが「組」なのだ。源氏(白組)と平氏(紅組)のどちらが勝っても負けても、日出るところの天子およびその関係者はきっと安泰なのだ。
こんなこと考えたのは、先日とある必要性から生まれて初めて自分の年収予測などという「はしたない」行為をしてしまい、ついでに諸々の「はしたない」イマジネーションに囚われてしまったことに対する自省からであって、本当はその経験をここに書こうと思ったのですが、それ自体があまりに「はしたなく」なる可能性があるので、またの機会にします。