科学は宗教に、宗教は科学に行き着く──「ニセ科学」を弁証法で読む

菊池誠の「ニセ科学入門」は、ニセ科学の代表例として血液型性格判断、フリーエネルギー(永久機関の存在)、マイナスイオン、波動をあげている(http://www.cp.cmc.osaka-u.ac.jp/~kikuchi/nisekagaku/nisekagaku_nyumon.html)。うちは前回買ったエアコンがマイナスイオン対応で、それ以来、今まで以上によく眠れるようになって感心していたが、マイナスイオンが存在しないなら、あの眠りは何だったのか、単に眠かっただけか、と思う。それはさておき、このうちの「波動」ブームの牽引者が、いま話題になっている「水からの伝言」の著者・江本勝である。
この「水からの伝言」問題によって、ネット上にはかつてないほどに「ニセ科学」問題をめぐる議論があふれかえっているが、それを大づかみに分類すると、大体以下のようなスタンスにまとめられるようだ。
[反対派]これは客観的実験に基づかないので、科学ではない。信じる奴らの思いこみだ。一種の宗教だ。
[擁護派]これは客観的実験に基づく、科学である。自分で実験しないのに嘘と決めつける奴らこそ、非科学的ではないか。
[中間派]客観的実験といってもいろいろある。科学か非科学かは、結局そう簡単には決められない。またそれを宗教だと決めつけるのも、よくない。宗教の定義も科学と同様に実際には不明確だからだ。宗教か科学かの線引きは難しい。
もちろん最大の問題点は、これらの三つのどの立場を取る人も、そのほとんどが、自分で実験して自分の眼で真偽を確かめていない(またそうする気すらない)点にある。科学的知識・態度においてほとんどイーブンな三者が、それが科学か否かをめぐって「弁論大会」をやっているのだから、これでは話が進むわけがない。しかしこれは、職業・技能の分業化・専門家がすみずみまで行き届いた現代社会ではやむを得ないことなのだ。
菊池ですらも「科学であるかないかは結局は科学者側の態度や姿勢によるのであって、同じテーマが科学にもニセ科学にもなりうるからである」と認めている。投げやりにも聞こえるが、専門家としてもっとも慎重な結論だと思う。科学者の「態度や姿勢」というのがポイントである。どんなに優れた科学者でも、途中で実験をやめて結論を急いだり、結果を「見込んで」実験を行ったら、たちまち科学からニセ科学に転じる、という戒めである。従って科学かニセ科学かは、同じ分野の研究者にしか、もっといえばその研究者本人にしか分からない、ということになる。そうなるとますます「一般市民」が識別眼を持つなどというのは無理な話である。なにしろすべては実験者の「内面的モラル」にかかっているのだから。

フローベールは『紋切型辞典』のなかで「学問」を「なまじかじると宗教から遠ざかり、やりすぎると宗教に近づくもの」と定義している。きわめて説得的な定義だ。しかし彼は「宗教」の項目では「民衆に必要なもの」と定義するだけで、学問との関連は書かれていない。だが、われわれが今日の社会を考える上で欠かせない重要な視点は、科学が究極的には宗教に行き着き、逆に宗教は究極的には科学に行き着く、という弁証法的認識ではないだろうか。
アドルノは『啓蒙の弁証法』のなかで、芸術と科学を例にして、似たようなことを述べている。
「芸術と科学とを、ともに文化領域として共通に処理できるようにするために、両者を別々の文化領域として引き離す対照化が通例となっているが、それは両者に固有の傾向によって、遂にはまったく正反対のものとして両者を相互に入れかわらせることになる。」
つまり文明史上のある段階から、人類は「記号としての言葉」である学問(科学=真理の追求)と「響きとしての言葉」である詩(芸術=美の追求)を区分して、互いを互いから遠ざけようとしてきたが、それは実はそもそも不可能な試み(あるいは偽の対立)であり、その結果として現在では両極端なもの同士の「反転」が生じている。つまり最先端の学問は「芸術」へと反転する。実証主義科学における唯美主義の傾向がそれである(数学者や宇宙研究者は公式や法則をほとんど「美的」に把握している)。一方、芸術は実証主義的な「学問」へと反転する。二〇世紀に流行したセリー主義、厳格な技法・図式主義のアートがその代表である(アドルノが12音技法を批判したのはこの認識による)。「真理の追求者」であったはずの科学者がいつのまにか美を、反対に「美の追求者」である芸術家が真理を追求してしまっている、という奇妙な事態を彼は弁証法で説明しているのだ。

「二項対立が究極まで行き着くと、両極がそっくり反転して入れかわってしまう」という、このアドルノ弁証法的認識は、むろんヘーゲルの「主人と奴隷」の理論に起源を持っているが、これは現代社会における科学と宗教の関係を考える上で、とても有効なのではないか。つまりわれわれは、科学とニセ科学を区別する議論が最終的には宗教の問題に入り込んでご破算になってしまう、という事実を確認して終わるだけはなく、あらゆる宗教は積極的かつ必然的に科学(ニセ科学であってもよい)を志向する、という面も見なくてはならないだろう。そう考えるなら、オウム真理教は「異端」だったからではなく、まさに宗教としてあまりに「正統」かつラディカルだったからこそ、弁証法を最後まで押し進めてしまい、現実を攪乱してしまった、という見方もできる(宗教と科学の「ニセの対立」を曖昧に温存するのが、どちらの側にも安定した構造であるから)。カルト宗教のビジネスライクな教祖とマッドサイエンティストは、まさしく互いに入れかわった両極なのである。
そして、科学と宗教とをこのように徹底的に弁証法的に捉えるならば、ニセ科学と宗教と比べる視点だけではなく、逆に、ニセ宗教と科学の違いをも問わねばならないはずである。占い(占星術)が「astrology」で、天文学が「astronomy」である、という受験英単語の基礎知識などにも、案外この辺りのヒントがあるかもしれない。