音楽における「他者」概念の拡張はもういいよ

「音楽鑑賞力は生まれつきか?--MIT学生がネットで調査」(http://japan.cnet.com/news/media/story/0,2000047715,20086496,00.htm)という、それ自体としては実にどうでもよい記事を読んでいて、「McDermottはサルが音楽にどう反応するかを調べる研究をしていた。これまでに、気性の荒いサルに音楽を聴かせても、おとなしくはならないことがわかったという」という文章に目が留まった。またこの種の「研究」かよ、と。こうした「研究」には一体、何の意味があるのか? サルがいかに人間に近い種であるか(あるいはそうでないのか)を確認する作業なのか? 大体、気性の荒い人間に音楽を聴かせれば、おとなしくなるのだろうか?(私を含めて、身の回りでは、おとなしくなった人間はいない。)そしてそもそも、サルにどういう音楽をどういう状況で聴かせたのであろうか?
この種の研究を前にしていつも感じるのは、「他者」概念をどこまでも拡張せざるを得ない、滑稽な学者の性である。歴史的過去の音楽、異民族の音楽、異教徒の音楽、下層階級の音楽、マイノリティの音楽など、あらゆる「他者」の音楽が研究し尽くされた後は、「人間以外の音楽」しか残っていない、と言わんばかりである。音楽研究の最先端としてのサル研究なのか?
MITの『The Origins of Music』などを読むと分かるが、最新の生物音楽学(biomusicology)では、サルは確かに道具を使って音を発するが、それをわれわれの言葉で「音楽」と呼んでいいのか、などといった、どこかで聞いたような議論(かつて民族音楽学(批判)のなかで主題化されながら、そのままアポリアとなった問題設定)が蒸し返されている。この種の問いは、結局、音楽の定義に関わるのではなく、人間の定義に関わるものである(民族音楽学がそうであったように)。すなわち、サルの音楽と人間の音楽を質的に区別しようとする議論は、どうやっても、ユダヤキリスト教的な人間観の信仰告白にしかならない。いくら起源を「複数化」(origins)しても、音楽の定義は人間が握っているわけで、生物はどこまで進歩すると音楽を獲得するか、という問い自体、まったく人間中心主義でナンセンスなものだ。
それこそがヨーロッパ近代的な知性の病かどうかは知らないが、また自分もそこからまったくフリーであるとは考えていないが、「他者」概念の拡張はもういいかげんやめたほうがいいよ、意味ないよ、というよりむしろ逆効果だよ、と思うわけであります。ボイジャーにバッハなりモーツァルトなりの音楽を刻み込んだレコード盤を乗っけて宇宙に飛ばしたのも、二〇世紀の恥ずかしい思い出としてアルバムにしまい込もうよ、と言いたいのであります。ストリートミュージシャンの研究とかにも、同じ気恥ずかしさを感じてしまうのであります。
ちなみに究極の「他者」とは、よく言われるように、サルでも宇宙人でもなく、自分自身である。従って、自身のアイデンティティやルーツと結びついた音楽研究は、サル音楽の研究よりも下らない、ということになりますかね。私も注意しなくては。
そして「音楽鑑賞力は生まれつきか、それとも習得されたものか?」という最初の問題については、母親の胎内にいる期間に「先天的」に「習得」されたものだ、という下らないオチしか思いつかないのだが、それじゃ学問的にダメなのかな?