グリーンバーグ批評選集

グリーンバーグ批評選集(勁草書房、2005年)を出版社から送っていただいた。どこかに書評でも載せれば一番良いのだが、とりあえず簡単ながらここで紹介したい。
まず、個人的に率直な感想を言わせてもらえば、時期が少し遅かった。
モダニスト・ペインティング」などの翻訳を収めた批評空間臨時増刊号の『モダニズムのハードコア』が出たのが1995年。四巻本の全集(英語)が完結したのが1993年。私は卒論でケージ論を書いたとき、これらを手がかりにして、自分なりにグリーンバーグモダニズムの観念(素材への自己還元)を吸収し、音楽論に応用した。
多少否定的なことを言うようだが、モダニズムやフォーマリズムの芸術がもつ問題について、グリーンバーグを再考する意義を私は見出せない。すでに多くの人によってさんざん議論されてきたし、すでにフリードやクラウス以後の問題系に決定的に移っているように思える。
従って、この選集により豊かな可能性を見出すとすれば、それはむしろ「モダニズム以前」の文章が数多く収録されている点にあるのではないか。
アドルノは『新音楽の哲学』でグリーンバーグの「アヴァンギャルドキッチュ」(1939年)に言及している。私はかつてそれを読んで奇異に感じた。だが、グリーンバーグがかつて(「赤狩り」以前のアメリカにおいて)左翼的な空気のなかにいた、と知ってそのつながりが納得できた。
資本主義社会から生まれたアヴァンギャルドは資本主義社会自体の脅威となり、それを侵食し、資本主義自体を衰退させる(この辺はフランクフルト左派的なお馴染みの議論だ)。いっぽうグリーンバーグは、現実の社会主義国家(スターリン体制)がキッチュしか生み出していない、という事実を認めながらも、この先アヴァンギャルド芸術が「保存」されうる唯一の場を社会主義のなかに見出す。「今日、我々は社会主義に対しては何であれ、今まさに我々の持っている全ての生きた文化の保存を期待するのみである」(本書p.24)。社会主義体制に対する、この限定付きの期待が、グリーンバーグ独自のものなのかそうでないのかは私には分からない。が、彼がこのようなスタンスから美術批評家としてのキャリアを出発させたことは重要である。
「さらに新しいラオコオンに向かって」(1940年)は、今回、私がもっとも喜ばしいと考える訳業である。レッシング『ラオコーン』(1766年)による時間芸術と空間芸術の峻別、バビット『新たなるラオコーン』(1910年)にみられるロマン主義的な諸芸術の「混合」への懐疑、そしてグリーンバーグによるアヴァンギャルドの原理としてのミディアム論のやり直し、といった具合に、芸術の境界論における三つのステップがあるのだが、この選集のおかげでその見通しがいっそうきくようになった。
グリーンバーグはこのなかで、ルネサンス時代の芸術家の標語(実はカントにまで及んでいるのだが)である「芸術は技巧を隠す」が、アヴァンギャルドにおいては「芸術は技巧を顕す」に取って代わられる、という(p.42)。「アヴァンギャルドキッチュ」で言われていた「アヴァンギャルドは芸術の過程を模倣し、キッチュは芸術の結果を模倣する」(p.17)という対立軸と重ねるなら、アヴァンギャルド芸術は、まさしく「技巧を隠そうとする」芸術家と「技巧を見ようとしない」大衆の距離を無化する、新たな社会的使命を担っているということが分かる。
モダニスト・ペインティング」(1965年)においてどうしてグリーンバーグは、絵画の平面性への還元という傾向を、カントの自己-批判まで引き合いに出しつつ、あえて「モダニズム」という大げさな語で呼ぶことになるのか(pp.62-3)。その一つの鍵が、この「さらに新しいラオコオンに向かって」のなかにあるのではないだろうか。
これらは今回、この選集を読むことで初めて思いついたことである。この本によって、グリーンバーグのキャリア全体を見通し、彼のモダニズム美術論の意義をより立体的に把握できるようになっただけでなく、彼の思想を美術(芸術)の外部の文脈に生産的に接続する可能性とチャンスがわれわれに与えられた、ということは確かである。
こんなもんでどうでしょうかね、Tさん。微力ながら応援しておりますよ。