どうしてSFは携帯電話を予想できなかったのか?

以前、田崎英明さんと話していて興味を持った話題に「どうしてSFに携帯電話のイメージが欠落していたのか?」というものがある。80〜90年代のSFやアニメではテレビ電話に類するイメージは盛んに出てくるが、携帯電話はまったくと言って良いほど出てこない。それはどうしてか、という問題だ。
もちろんテクノロジー的には携帯電話はトランシーバーの延長であり、それはSFにつきものである(腕時計に向かって喋るとか)。だが、街や駅で多くの人が歩きながら携帯で話をしている、という現代日本の日常生活の情景は、どんなSFにもアニメにも出てこない。つまり、今日のような携帯電話文化は、SF的には予測不可能だったということになる。なぜか?
この問題に興味を持って以来、いろんな人と会う度に話題にしてきたが、そのなかから何となくヒントになることが浮かんできた。
それは、携帯電話によるコミュニケーションはそもそも人類に必要がなかったから、という説である。だからそれはSFに描かれる未来予想図には登場しなかったのである。つまり、携帯電話の開発・普及はいわゆる「科学技術の進歩」の線上にない、ということになる。それは生活水準を向上させたり、時間を短縮するための道具=技術ではない。むしろその反対の効果を持つというのが実感ではないのか。その意味で携帯電話は真にポスト近代的な道具=商品である(周りがみんな持っていれば、本来自分は持たなくていいはずなのに、まさに周りがみんな持っているからという理由で、持つことが要求される、という点でもそうだろう)。
だがこれから登場する文化的インパクトを伴う道具=商品は、どれも携帯電話と似たような受容と普及の過程を辿らざるを得ないはずだ。そこでは技術の過剰が、本来なかったはずの必要性を、あたかも予め存在するかのように事後的に作り出すのだ(その意味でインターネットの掲示板を「落書き」の延長として理解するのはおかしいと思う)。
ベンヤミンは技術の過剰が戦争(軍事産業)を生み出すと警告したが、同じ場所を共有している人々が携帯電話を使ってそれぞれどこか違う場所と(のみ)つながっている、という現代日本の日常生活は、まさしく技術の過剰が生み出した一種の戦争状態なのではないか。携帯電話はコミュニケーションの道具であるどころか、コミュニケーションを不可能にする「武器」なのではないか。そしてベンヤミンも言った通り、この戦争に勝者はいないのである。
今夜、久しぶりに乗った満員電車でそう確信しました。